【今年の旧正月】

創立者より

児廻り隊主宰の「太陰暦元旦横濱村鎮守参詣コース」第7回が

先日2月3日に行なわれた。

連日寒さが続く日々に、春の気配を感じさせる日和に恵まれたのは何よりであった。

羽衣町厳島神社に、交通安全と諸君達皆の「武運長久」を

参加者が代表して祈願した。

この行事は「横濱とは何だろう」を問う事から派生した。

仲間の一人も関わりのある寺、連光寺本多住職から聞いた話がある。

5,000基の墓が有るのだがその内無縁仏が3,500基。

関東大震災と横濱大空襲がその結果と思えるとお話下さった。

明治初期、廃仏毀釈などの政策で港の造成をするのに

州干島弁天は邪魔だったのだろうか。

今にちでは人々の記憶から消えていった事だが。

伊能忠敬と同時期に幕府は五街道絵図も作成。

東海道編に、州干島弁天は記録さている。

金沢沖より穏やかな海路で、女子供も江戸から押送船での

観光の地として賑わったそうな。

大した事ではないのだろうから消えても致し方ないと思うが、

いずれ我々も消えゆく運命だ。

時代をさかのぼり、奈良時代に生きた

都築出身の服部某の歌が万葉集に収録されている。

防人として九州に派遣される時、女房に送った別れ歌と女房の返歌だ。

以前、我々の依頼で、横濱に贈る能として

『橫濱三時空』が多田富雄先生によって制作された。

その軸が都築出身の服部某。

彼等は過去現在未来を能の中で生きる。

参拝の後、久しぶりの華都飯店で昼食会。

華都飯店のママは、三年前に旅立ったと娘達から聞かされ、

月日が流れた事を知った。

すぐに思い出された記憶では、

ママは店を采配しながら良くカード占いをしていたな。

この店はパソコン通信初期の時代に、

ボイスオブケンタウロスの集会所として利用していた。

当時、参加人員が多く二階のホールが使われた。

今回は小規模なので一階を借りたようだ。

足元が覚束ない私に、階段を使わないように

気遣ってくれたのかも知れない。

見渡す顔ぶれは久方振りの顔が多かった。

あの顔の長男は、赤ん坊の時オムツ交換時に

ショップに居合わせた女性陣がオ○○○○に、歓声を上げていた。

あの子はどのような成人になったのだろうか。

隣の男は資格マニアで、確か30以上の資格を持っているのでは。

おぅ、彼は最初に記憶に出てきたのは三輪車だったか、

幼児用自転車かで遊んでいた姿だった。

お前の姉さんはどんな姉さんになったのかな。

なぜか、奔りの記憶が浮かんでこない。

奔りに自信のある奴しか集まらなかったから、

今更の感である。

ケンタウロスを例えて、「止まり木」だという説がある。

ライダー鳥が偶々立ち寄る。実がなって口に合えばつまんで行く。

仲間を求めに来る鳥は、比しきりピーチクパーチクやって

選んだ仲間と飛びだって行った。

数の多さに止まり木が支えきれず、しなって折れそうになり、

実も葉も落ち、枝が折れて仕舞うこともあった。

我ら族の生息する共同体、国家はガタが来ているようだ。

長期にわたっての武家社会代表の江戸幕府が崩壊、天皇制も

昭和20年8月に象徴にかわってしまった。

戦後、会社が頼りの綱だったが、今や平気で首を切る。

官僚制が確りしていると思いきや其処も怪しい。

地縁、学縁、会社縁も縁としては薄く、

頼りの綱とは言えなくなったのか。

遊びに命を張った族員諸君だ。

困難に立ち向かえる力がある。

唯々、単車をベースにして力合わせで継続し、

今に至る我々だ。

その中の有志に集まって貰おう。

単車を楽しませてくれたこの社会に、

恩返しをするために、知恵を出し合おうではないか。

皆と会って、去来した事々を羅列した。

お蔭様で、

集まりに参加した諸君たちとハマの友人たちに会えた。

会を先導した児廻り隊隊長松尾、太田、ありがとう。

そして私を迎えにきてくれた今井、大中、ありがとう。

また、二代目中原秀明には筒森までの送りをしてもらった。

なんと有り難い事か。

手間の掛かった横濱詣でで皆に申し訳ないこと至極である。

映画監督中村高寛氏は横浜を記録する作家だ。

参加諸君の協力が有ってこそ絵が撮れたようだ。

諸君、本当にありがとう。

2019年2月節明けに   飯田 繁男

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