デニーズの先

クラブハウスからのお知らせ

俺が中3の頃,同級生の友人が、こんな事を喋ってた。
同じ中学出身の、一つ上の先輩が、自動二輪免許を取ったらしい。
なんでも、免許試験車は、350だったらしいが、ナナハンに乗れるなんて話だった。
俺も16になったら…と、その時は思ったが、友人の話には続きが有った。
「俺らがよ~、免許取り~行ける来年にゃ~、自動二輪は小型、中型、大型と分けられてしもうて、ナナハンに乗れる大型はよ~、免許試験場で、直接試験受けるしか無いんじゃと。それも試験で乗る車は、ナナハンになるんじゃって。」
ハァっ?…なんじゃそりゃ!
そんなこんなで、俺が単車に乗りだしたのは,1977年の高校卒業前。
同級生が、四輪の免許を取りに行ってる時、俺は二輪免許を取った。
まず原付、そして中型へ。
その後、高校を卒業し、就職の為、実家の山口から、大阪へ上京。
俺は、四輪の免許は、要らなかったが、ナナハンに乗れないのが、気に食わなくて、20歳で、限定解除して、ナナハンを、手に入れた。
最初に乗ったのは、ⅭB750K1で、そいつにヨシムラ組んだリ、鈴鹿へ8耐見に行ったりと、当時の俺は、その辺によく居る若僧で、普通の単車乗りだったと思う。

車検が半年付いてて、15万円だった。
前年優勝したヨシムラは、この年は、駄目だった。

そんな俺が、ケンタを初めて知ったのは、会社の独身寮の洗濯場だ。
洗濯のついでに、先輩たちが置いてった、週刊プレイボーイをパラパラしてたら、ぺぺさんの、看板姿のバックシャンで始まる、白黒写真4ページが、目にとまった。
それは、POLESTARの前に集まった、13人のケンタウロスを撮った物で、次号から連載が始まる、劇画ケンタウロスの伝説の、PRだった。
その後も俺は、有難い先輩たちのお陰で、連載の始まったばかりの劇画も、洗濯のついでに、目にした。
しかし、週刊プレイボーイに出てた、ケンタの事は、当時の俺には、別世界の、絵空事のようで、それほど興味は、持てなかった。
それに、洗濯場で見かけなくなってからは、俺は、ケンタの事なんか、忘れてた。
ところが、まさに、何の前触れも無く、突然だった。
1981年の夏、高校時代から愛読してたミスターバイクに、ケンタの広告と、ケンタウロス外伝が、記事として、載ったのだ。
これって、俺が洗濯場で見てた、あのケンタウロスか?。
衝撃的だった。
ミスターバイクが、愛読書だったせいか、ケンタの世界が、身近に感じられ、そして、すっげーカッコ良く思えた。
その後のミスターバイクには、毎号ケンタの広告が載り続け、記事にも、頻繫にケンタの姿が見られるようにる。

大阪を離れる、1週間前、愛車H2と、22歳の俺。(大阪、独身寮にて、)

外伝から半年後、俺は一身上の都合により、山口の実家に戻ってしまってた。
実家は、山間部の百姓家で、家の周りは山、川、田んぼ、道、以上,という所だ。
親父のコネで、新しい仕事に就いてはいたが、次男として育ったハタチちょいの俺は、大阪に住んでた事も災い?し、
「このまま田舎者に、なりたかないし、とにかくトンガッてたい。(80年代初頭ぽい)
と思ってた頃だった。
1982年末、ペーパーケンタウロスが、創刊される。
俺は、迷わず定期購読を申し込んだ。
それからは、もうミスターバイクとペーパーケンタウロスの、ダブルパンチだった。
この頃の大将は、全国の単車乗りに向けて、
「我こそは、と思ってる奴は、横浜の俺に、会いに来い。」
と言ってる様な(チョット違うかな?、間違ってたらすいません。)様な気が、した。
そして俺は、前に洗濯場で見た、劇画ケンタウロスの伝説も、コミックスを買い揃え、再び読み返した。
「このまま田舎に、閉じこもってちゃいかん。」
「ひと味も、ふた味も違う男になるんだ!。」
「よぉーし、俺も!」
と、今度の4月~5月の連休を利用して、ケンタへ行く事を計画。(何だか、この頃の俺は、流石にめっちゃ若い。書いてて恥ずかしい。俺、ダイジョブか?)
それで、連休の何日か前に、ケンタへ様子見の℡を入れてみると、
「来るの?。いいよ。どうぞ。海老名SAまで来たら、℡して。」
との事。
もう、行かない理由は何も無かった。(ホントは有ったんだろうが、見えちゃいなかった。)
連休初日の朝、コロナタンクバッグに、ペーパーケンタウロスの1号を、挟み込、それをFカウルを外してた、銀色のドカSSに取り付けた。
黒い綿ツナギに、皮ジャン、乗馬ブーツそして、白いBELLマグナムと、まぁ~、こんなカッコで、出発する予定だったが、あいにくの雨で、カッパを羽織って出発。

タンクバッグと言えばこれだ。


10分後に、中国縦貫にドカを乗り入れる。
中国縦貫は、大阪まで開通してたが、まだ対面通行が、多く残ってた。
早目に雨をやり過ごしたかったが、中々進まない。
前日に行われた、会社の吞み会の酒が抜けてくるのと、あいにくの雨が重なって、すっげえ寒い。
広島県辺りのSAで、暖を取ろうと、飲んだ紙コップのコーヒーは、寒さで手が震えて、3分の2がこぼれた。
この日、雨はずーっと降ってて、大阪に入って、やっとやんだが、その日は、久しぶりの大阪で、知り合いのところへ転がり込み、厄介になる。
翌日は、朝からいい天気だった。
早めに出るつもりだったが、何だかんだと14時過ぎに出発し、海老名SAに着いたのは、22時前で、慌ててケンタへ℡を入れ、この先のルートを聞く。
「…首都高の横浜公園で降りたら、あと500メートル圏内だから、降りたら℡して。」
との事。
言われた通りに、東名の横浜インターを降り、保土ヶ谷バイパスから横浜新道と来て、三ツ沢で首都高に乗るのを、残念ながら乗りそびれ、(あっちゃ~)下の道を行くことになる。
三ツ沢の下りコーナーで、眼下に横浜の街灯りを観ながら、不思議な感覚におそわれる。
都会なのに、中々なコーナーが、つずらおりになってて、まるで俺の田舎の峠道みたいだった。
横浜って都会だよな?、都会なのに、こんな道があるの?、(この頃の俺は、都会には、こんな道は無いと思ってた。バカだ。)このルートでいいのか?、と不安になり、下りきった所の交差点にあった交番へ飛び込んだ。
「ケンタウロスには、どう行けばいいですか。」
と、田舎もん丸出しで訊いたら、そこにいた警官に、交番内の、壁に貼って有る地図を使って、大変親切、的確に、教えてもらえた。(交番の警官って素晴らしい!)
警官が言うには、
「…目印は、デニーズだ。その隣にガソリンスタンドがあって、そのすぐ先にある。この時間やってれば、店の灯りが見えるか、バイクが止まってるので、すぐわかる。」
との事だった。
後は、言われた通りに、夜の横浜をドカSSで流せば、警官が目印と言ってた、デニーズが見えた。
そして、デニーズの先の路上に、黄色っぽい光が漏れてて、その光の中に、止まってるバイクを、見つけた。
俺は、そのバイクに近寄って行き、ドカに跨ったまま、歩道の向こうの光の元へ目をむけた。
そこには、
そんなに大きくないビルが建ってて、2階の外壁に、YAMAHAの文字看板が張り付いてる
その看板のすぐ下に、大きなショーウインドーが有り、そこから、1階のショップの灯りが、路上まで漏れてる。
勿論、ショップ内は、車道から丸見えで、その中に、店番のバイト君と話をしてる、看板姿のメンバーが見えた。
ケンタウロスだ。

帰りに使った首都高の領収券

 

俺が、ペーペーの頃の、ケンタへの、取っ掛かりを書いてみた。
なんで、こんな話を、と言われそうだが、当時俺と、時期を同じにして、同じように、ケンタに関わり始めた人は、沢山いた。
そして皆、其々異なるストーリーがあったはずだ。
その中の一例として、何の参考にも、ならないとも思うが、当時の俺のことを、書いとこうと思った。

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